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鳴しろ信者である管理人の萌え吐き出し場&問わず語り。
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昔、『まんが日本むかし話』で『雉も鳴かずば』を見て、物凄くショックを受けた。市原悦子さんと常田富士男さんの演技力が半端なく、物語の哀しさに胸を打たれました。それが日常茶飯事であったろう、自然に畏怖しながら生きた先祖の暗い部分を幼いながら知りました。
たっ た少しの小豆ご飯も食べることが出来ない貧しさと、どんなものでも盗みは盗みとして罰していく厳しさ。生贄を当たり前に考える文化の恐ろしさ。時に人が人として扱われない時代の恐ろしさ、そしてそれはこの日本でかつて行われていて、きっとそう遠くない過去まで行われていたろうこと。



語り出せばまた同じようなことをgdgdと…orz
でもまだ続くー。
ブログに広告が出るようになり、前のテンプレだと見辛くて仕方なかったので模様替えをしました。



Q. 『月光条例』の中で一番好きなキャラは?



A. 斉天大聖です。





エンゲキブの脳内長屋住人の鳴海でも、海の家を経営している鳴海でも正解なのですが(笑)。
この作品ではダントツに斉天大聖ですね。あのルックス好きです(本音:ちょっと鳴海に似ているから)。



ただね、残念なのは好きになっても藤田先生オリジナルのキャラではない、ってところですか。
オリジナルの『西遊記』の斉天大聖というキャラクターは完成しきってますから…斉天大聖が登場即最強である、というのも岩波文庫10冊分の原作の中でしっかり語られた裏付けのあるものです。
読者パワアというものがキャラの強さに換算される、という『月光条例』の作者のサジ加減で何とでもなる不確かなランキングでも納得できる。何しろ人間の創作物から生まれながら信仰の対象にもなっている。
読者パワア言っちゃったら日本のおとぎ話のキャラなんか長老になんかなれないと思うのだけども。



斉天大聖は物語の最後、闘戦勝仏の名をもらいます。そりゃ強いですよ、神仏に連なるわけだから。
大地の神気が生んだ石猿で、修行して仙術を学び、その身体の硬さにだって理由がある。如意棒の重さは8トンもある。あそこまでの強さを手に入れるまでには長ーい物語がある。
子ども向けのおとぎ話は天界で騒ぎを起こして、お釈迦さまの手に落書きして、山の下敷きになっているところを三蔵法師に助けられて、途中せいぜい牛魔王や金角銀角を倒して、天竺でお経をもらってめでたしめでたし、です。
でも原作において三蔵法師に助けられるところまでは、全体の1割程。殆どは天竺までの険しく長い道のり。まあこのお師匠さんが年中妖怪に捕まるヘタレ、しかも人使いが荒い。その度に助けてもらうのだけど、猿が粗暴なことをすると緊箍呪を唱える。どうしようもない師匠だけど猿は守護する。師匠や神仏に反抗もするけど仁義や礼儀は欠かさない。
斉天大聖、カコイイ。
私なんかは岩波の挿絵の斉天大聖でもかっこいいと思う、ましてや藤田絵でかっこよく描かれた日には「おおう!」ってなる。世には他にも色々な孫悟空がいる。でもそれはオリジナルがものすごくしっかりしていて、魅力的だからパロディが生まれてくる。



藤田斉天大聖は粗暴な感じがしないどころか、沈着冷静で落ち着いた感じ。原作とはちょっとイメージが違う。
でもそんな猿もいけてると思う。自分のために辱めを受けたエンゲキブに応え、怒りを爆発させた斉天大聖は鳴海味がついててとっても美味しかった…。あっさり敵に捕まって弟子に迷惑をかけるだけの師匠を助けないといけない斉天大聖の背中が渋いよ。
He knew every magic trick under the sunですよ?申し訳ないが、魔法対決で、元来魔法使い設定のないチルチルの付け焼刃魔法に負ける筈がない。荒事得意設定だって当然ないチルチルなんだから如意棒を片手で振り回す斉天大聖の剛腕に叶う筈もない。赤ずきんがおばあさんやら猟師さんを召喚できる、シンデレラが暴走車付きネズミを呼び出せる、そんな原作のどこにも見当たらない能力を条例執行後も行使できるなら、斉天大聖は釈迦無二尊やら救苦救難観世音菩薩やら太白老人を呼べる。天網恢恢疎にして漏らさず、哪吒三太子を始めとした天界軍を呼べるはず。だって土地神や龍神を呼び出すのは斉天大聖のデフォなんだから。



でも。
そんな斉天大聖をエンゲキブに「最強」と言わせたあたり、この後、月光さんのあて馬にされる運命にあるのかなあ(涙)。どう考えても月光が最強だろうしなあ。やっぱり好きなキャラをダシにされたら哀しい。
最強月打チルチル>斉天大聖…ものすごい主人公補正だね(苦笑)。
その点、桃太郎はお気の毒でした。



桃太郎の名前が出てきたのでちょっと話を変えますが。
『桃太郎』は、物語がそれぞれの時代を反映して姿を変えてきたいい例だと思うのです。
「桃を食べたおじいさんおばあさんが若返り回春、桃太郎が生まれた」という件は、子どもの教育上よくないとされ、「桃から生まれた」が主流になった、とか。
「鬼退治」というのが暴力的でよくないとされ、「話し合いで平和的解決」という話が多くなった、とか。
富国強兵の流れから、桃太郎に陣羽織を着せて、犬猿雉とは主従関係にし、今の桃太郎のイメージとなった、とか。
元々は朝廷側が国を治めていく折り、【鬼】(=体制に従わない存在)を討伐していった史実を英雄譚として語り継いできた背景もあると思う。だから体制側からすれば桃太郎は正義を執行して治国に邁進した英雄だし、反体制側からみれば桃太郎は単なる掠奪者になる。悪者を懲らしめただけではなく、金銀財宝を持ち帰っている段階で、それは決して綺麗事ではない生々しさがある。
そんな話は現代でもいくらでもある話で、鬼と断じられた方からみれば『雉も鳴かずば』レベルの悲話なんていくらだってあっただろう。



だから、実は「おとぎ話の展開にも結末にも正しいも正しくないもない」、って話。
読み手自身の立ち位置はどこ?書き手の視点はどこ?ってことなのです。
そんなことを言ったらそれこそお話にならないのですけどね(苦笑)。
とすると月光が条例執行する度に物語を改変していることも、実はあながち正しくないとも言えない、というパラドックスが生まれてくるわけです。
ただ、それは作者不明だったり口伝だったり、そういうものに限るでしょう。民話をまとめたペロー童話やグリム童話もその範疇。原話がはっきりしない上にまとめる上で改変も行われていますしね。
でも作者が分かっていて原文が残っていて、なんてものには手を出してはダメでしょう。アンデルセン童話はダメな部類です。
メーテルリンクもどうかなあ…チルチルが月光の正体だけど。敵国日本には版権を渡すなと遺言したメーテルリンク。時代は過ぎたし、今は普通に『青い鳥』は読まれているけれど、藤田的解釈で「よくもおれたちを不幸に書きやがって」と自分の作品の登場人物に恨み節をぶつけられる役として登場とは…いやはや。



作中で「作者とは、登場人物にとっては神のようなもの」という主旨の発言がありました。
作者を神としておきながら、自作のキャラの手で先人の作品を弄り変質させてしまう行為、これって創作世界「神をも恐れぬ所業」なのでは…?
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