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鳴しろ信者である管理人の萌え吐き出し場&問わず語り。
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感想はまだあったりする。
最新刊まで読んでみたい気になりました。
でもコミックスを自力で買う気はない(陳謝)。



実は『ワンピース』を既巻分67巻、大人買いしました。巻数が『からくりサーカス』をはるかに超えている上にまだまだ終わりそうもなく、しかも流行りに流行っているので手を出す気もなかったのですが、ダンナが新幹線でのヒマつぶしに買ってきたのを読んだら止まらず…結果、娘たちも一気読みし、CSのアニメ再放送を楽しみにしているという有様です。
『ワンピース』は典型的なジャンプ漫画だけれど、これこそ”少年”漫画なのだと実感。
だって子どもたち、『ワンピース』好き多いのだもの。ちゃんと「少年漫画」を「少年少女」が読んでいる。
少年少女にも分かりやすい展開、主人公は熱血バカで人助けに理屈がいらないタイプ、キャラ付けも明確、いかにも子どもが好きそうなギャグ。敵も能力によって相性や対応が変わるので比較的強さのインフレが起きづらい予感、一応敵が次々と現れても不思議じゃない環境設定(推理物だといくらなんでも周りで殺人事件が起き過ぎな件)。大人が読んで泣ける。何よりチョッパーが可愛い(圧倒的なマスコットキャラがいる)。



藤田作品も少年漫画の王道。『月光条例』もそうなのだろうけれど、色んな意味で少年少女に分かりづらいかな…大人でも分からないし…逆に思考停止してしまえばOKなんだろう。でもそれでいいのか?
『うしおととら』は娘たちに今読ませてもいいかな、と思う。
『からくりサーカス』はおいおい、かな(3巻までは済)。



Q. 『ワンピース』で一番好きなキャラは誰?



A. フランキーです。





月光の正体は『泣いた赤鬼』の青鬼でプロットを進めていたのではないか、というのが大方の予想。
とにもかくにも、webサンデーバックステージでエクスキューズをしてしまったのが完全な失敗だったと私は思います。言わなきゃ分からなかったのに、これを公にしてしまったことで今の「月光の正体はチルチル」の流れが変更を余儀なくされての苦肉の策である、と読者にネタばらししてしまったも同然。読者はそれを踏まえながら読まざるを得ない。せめて、するならするでエンドマークを迎えてから「実はね」って形ならよかった。
『からくり』における鳴海退場のネタばらしもこれと同じだけど、受ける印象がかなり違う。



「鉢の武器形態のデフォが金棒」は「月光は鬼である」の暗喩だったわけで、藤田先生らしい読者へのヒントを用意してくれていたのでしょう。当初から「武器が格好悪い」だの何だと言われつつも、金棒で押し通してきたのには訳がないわけない。
これに意味がなかったのならもっと見栄えのする武器にしても何ら問題ない。金棒でぶん殴る姿が主人公の攻撃スタイルとしてはスマートじゃなかったもの。まあ、潮が槍術、勝が剣術、鳴海が徒手格闘術、過去の主人公と被らないようにした結果なのかもしれないけれどね。
ああ、そうか。
月光がチルチルなら斧がデフォであるべきなのか。
チルチルって木こりの息子じゃなかったっけ?
斧だと月打兄嫁と戦っている鉢を加勢するのは『一寸法師』キャラじゃなくなるね。
斧と言えばあの有名なおとぎ話があるわ(笑)。



・鬼に金棒
・太郎丸が月光を「鬼」に例える。
・地獄で見る顔。
・髪が角のように盛り上がり、刀をも弾く。
・記憶に残る誰かの泣き声。
・桃太郎が月光に己のトラウマを見る。
このあたりまでは「月光=鬼」設定だった(さりげなく『泣いた赤鬼』の伏線もひいていた)のが、アラビアンナイトで一転、著作権者のお許しが出ずに設定変更。



月光が聞いた泣き声はチルチル時代の自分のもの、と回収。
髪型は帽子で刀を弾いたのは装飾の宝石、真横からみたあの髪形は見事な1本角でしたが、帽子。
かなりの力技ですが先生はよく考えたものだと感心します。数多あるおとぎ話の中から、よくぞダイヤ付きの帽子を見つけてきたものですよ。
その他の鬼伏線は単なる描写、とすればまあ…肩すかし感やチグハグ感は否めませんが、まあ…。ここまで肉弾戦一辺倒だったのに、魔力と全く縁遠かった月光がハリポタと同業者なのは驚愕の事実ですが、まあ…。



前の記事にも書きましたが、おとぎ話には教訓が含まれています。『青い鳥』の教訓は、物語の最後にチルチルとミチルが知ることですが、
「気がつくのが難しいけれど、幸福はごく身近にあるものである」
「自分のためだけではなく他人のために求めた時、幸福は計り知れないくらいに大きくなるものである」
ということです。
『マッチ売りの少女』では、少女自身、おとぎ話をリアル人生だと認めていて自分の最期を知っている。物語は人生でありながら、自分は公演を何度もこなす役者のようにそれを何度も繰り返していることも自覚している。そんな人生を「読む」存在があることにも気が付いている。要するに自分の物語の最初から最後までを把握しているわけです。
マッチ売りの少女がそれに気がついたのは月打ち時だからなのか、常に分かっていることなのか、もう設定が訳分からないので分かりません。この際、もうどっちでもいいのだと思います。
同じ物語を何度も生きていると分かっていながら、それがリアル人生という設定が酷い。



代役システムがある
→ 『雉も鳴かずば』のお菊だって誰かに役を代わってもらえる。どんな哀しいおとぎ話だって同様。
→ しかもシンデレラみたいに読み手の世界に息抜きしに来るパターンもあり。



鉢かつぎは作中で自分たちを苛める義姉たちとの関係は良好。
一寸と鬼は信頼関係。
ブタとオオカミは共存。
白雪姫の継母は長老を務める。

赤ずきんの父親だけ何故か本気でロクデナシ。



赤ずきんだけ環境劣悪すぎる。代役がきくんだからたまに息抜き休暇を使えばいい。どうも同僚に恵まれていない職場っぽい。チルチルはおとぎ話モードの時に飛び込んで、悪い父親を演じ中のおっさん(舞台裏では超いい人)を射殺したのではないだろうか…と思わざるを得ないレベル。



おとぎ話の住人にとって不幸なことは、「不幸である物語の登場人物である」ことよりも、「自分の物語(人生)の教訓を自分で全く分かっていない」ことじゃないのかな。
ネロが自分を可哀そうだと連呼していた。物語の中の自分が不遇で可哀そうだと彼は言っていたが、不遇な自分が読み手に与える感動を知らずにただ表面的な不幸を嘆くだけのキャラ付けをされた彼が可哀そうだ。苦労が認められ大往生出来た某じいさんの満足人生など、そんじょそこらの一般人自叙伝にでも任せときゃいい。
実はチルチルが一番不幸。
「気がつくのが難しいけれど、幸福はごく身近にあるものである」
「自分のためだけではなく他人のために求めた時、幸福は計り知れないくらいに大きくなるものである」
自分の物語の教訓がまるで分かっていなかったのだから。お菊とマッチ売りの少女が「チルチルが自分自身を救えますように」ってお願いしたのも頷ける。



おとぎ話にとって一番最悪なのは、「自分の物語を読み手に忘れられること」でしょう?
だから月打ちによって生じるデスアピアが恐ろしかったのでは?
『月光条例』の途中から、問題の軸が「物語の消滅」から「不幸自慢」にすり替わっている気がします。
主人公が不遇、不幸、アンハッピ-エンドであっても読み継がれる名作と評価される物語の登場人物であることと、ハッピーエンドでもありきたりで読み手に飽きられ忘れられる物語の登場人物であること。
どちらが「おとぎ話の登場人物として」幸せなのでしょうか?
裸の王様たちは「哀しい話の登場人物が人間に忘れられたら尚救われない」みたいな意見を述べていますが、幸福か否か、はあくまで主観論だから傍から見て幸せでも「自分は不幸だ」と思えば不幸なわけです。シンデレラがいい例。部外者が同情したところでそれは「他人のモノサシ」でしかないのでは?
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