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鳴しろ信者である管理人の萌え吐き出し場&問わず語り。
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総括、最後のお題はこちらです。



Q.勝とフェイスレスは実の親子関係ということなんでしょうか?勝の母親と貞義の関係がずっと謎です



A.描いた時はそう思っていたはずです。







主人公・勝とラスボスの関係、これって物凄く大事なことじゃありません?
勝と貞義の因縁の深さ、これが原作終了後、作者からしてあやふやって…残念至極です。勝とその父親の死から物語は始まり、物語の終わりには片や主人公、片や黒幕として戦うのに。そのふたりの関係性があやふやって。
ありえない。



勝と貞義の関係。
このネタに関しては勝スキーの第一人者・ちささんと過去にずい分メールで語らいました(笑)。



加藤鳴海、前半の物語牽引者。実際にゾナハ病患者であり、『しろがね』の物語の始まり銀の記憶を持ち、イリノイでの子どもたちの死を体験し、『しろがね』の仲間たちの悲壮な最期を見届け、その責任を一身に背負い、偽フランシーヌや最古の4人と関わり、両腕両脚を失って人外の者として生きていく運命に身を落とした第2の主人公格。
先生の中では勝一人が主人公なのかもしれない。
とはいえ連載初期は三人主人公をうたったのも事実、鳴海の独白からスタートしている以上、読者は鳴海視点で物語を読み始めます(先生が「勝だけが主人公」と決めた段階で作り手と読み手の間に差が生まれたのでしょう)。
そんな鳴海から物語の主軸を引き継いでラスボス戦を引き受けるのであれば、勝には鳴海以上の因縁を貞義との間に設定しないとバランスが取れない。
これも何度も言うように、勝には物語前半、サハラ戦までの『しろがね』の悲運は引き継がれてはおらず、物語途中からの主流への参戦、そこから鳴海以上に金との因縁を構築するのは難儀です。



けれど勝にはラスボスの肉親である、という鳴海にはない、鳴海も欲しくない因縁がある。しかもそれは第1巻から言明されている事実。だった。確かに連載当初は貞義と勝には血の繋がりがあったように描かれている。実の父親にエサ呼ばわりされたからこそ、勝の悲劇性が高まった。
だけれどもいつしか、『愛人の連れ子』みたいな言い回しを貞義がする。自分の計画に最適な子どもを探してきた、みたいな曖昧模糊としてくる。
藤田先生が作品の主人公と一押しする、可愛い勝に重たいものを背負わせたくないために彼のバックボーンを比較的きれいなものに移行させた匂いが漂います。こんな大事な事が確定事項ではなく、作者の中で設定の記憶汚染が起きていたこと自体、不思議でなりません。



かつてちささんと、
「勝が実際に貞義のクローンだったらもっと因縁は深いよね」
なんて妄想話もしました。
勝にとっては非情な設定ですけどね、そうなればラスボスは真に勝自身であって、鳴海以上に勝が止める確固たる理由になる。実際に貞義はクローン技術にも手を染めていたし、ラスボスは青年にまで成長しているクローン体、全くの赤の他人に記憶をDLするくらいなら、自分自身のクローンにDLした方が金の病的な執着心も現せる。作りあげたクローン体があれ一体だけ、って言う方が現実味がない。原作では、最終局面でクローンをいきなり出した感が否めなかったので…。
中国でわざわざ白家の少年を誘拐してきたくらいです。彼はオリジナルにより近い血を求めているものだとばかり思っていたのですがね。



貞義が勝の肉親かどうかは不明確になってしまったのですが、勝の母は実際に貞義の愛人だったのでしょう。大企業社長愛人の割に貧しい生活をしていたあたり、そして勝が父親が誰なのか分かってなかったあたり、勝母は貞義から距離を置いていたようにもとれます。貞義のクローン胚受精卵を体内に入れられた愛人、だとしたら?勝のモンスター級の頭脳だって後天的に貞義が弄くり付与されたものかもしれない。勝に対する貞義の非人道的異常執着に恐れを抱いた勝母は貞義に消された可能性だってあります。タイミング的に。
ラストバトルで勝が戦う決意をしたのが「お母さんを泣かした」ってのも…まあ、理由としてはアレなんですけど本当に貞義の手にかかっているのであれば立派な仇です。



勝と鳴海、ふたりの主人公格。
小学生である勝の方が実はダークヒーローで、絶望しきっている鳴海の方が実はライトヒーロー、だったらね。なんて話もしました。
勝と鳴海のバランスを取るために、勝を徹底的に重たくしようと思えばいくらでも重たくできるんです。自分の身体は作りもの、貞義のコピーだった。自分の考え・感情だと思っていることも、貞義に操作されたものかもしれない。誰かを好きって気持ちすらも自分のものではないのかもしれない。勝のアイデンティティは崩壊しそうです。
壊れそうなひ弱な少年、自分が自分であることを証明するために懸命な小学生の方が、同情できます。必死で貞義にすがっていかなければ自分を肯定できない勝は、手足を失っても自己や信念を己のものと肯定できる鳴海よりも可哀想な立場になる。
先生の作り込んだ世界観はとても複雑でとてもドロドロしていて、幾らでもおいしい料理ができたのに。



でもそれが「血の繋がりはなく赤の他人、頭のいい子を探してきただけ」になると一気に薄っぺらくなる。



鳴海は、銀の記憶と、『しろがね』たちの想い、ゾナハ病患者代表として。
しろがねは、自分自身の淋しい人生と、両親の仇、ふたりのフランシーヌの過去を受けて。
勝は、己の出生と、『自分自身』を止めるために、今度は自分が鳴海としろがねを助けるために。
それぞれがそれぞれの因縁に基づいて、ラスボスに向けてのアプローチをすれば回収できるものもあったはず。



振り返ってみれば不整合の多い作品、それが『からくりサーカス』です。好き故に何度も読み返しているうちに齟齬をあちらこちらで見つけてしまう。
先生も仰ってるように全43巻の9年間、毎週毎週話を考えるのは大変だったと思います。ご自分で設定のチェックだってしきれないだろうし、改心のネームを 切った時には前の設定を忘れていた、ってこともあるでしょう。完璧はありえないですよ、人間だもの。
(問題は作者ご本人の周りに原稿をあげる際、それまでの設定との齟齬や不整合を見つけられる人材がいないことです。担当しかり、アシしかり。作者の、作品のファンがいないってことですよ。『月光』においての月打ち無罪の件でファンに指摘され訂正したことといい…それに先生も周囲の意見を聞かないのでしょう。作品のクウォリティが落ちるのは自業自得ですが、それに振り回される読者はいい迷惑です。)
だから、作中の小さな齟齬はいいのですよ。読者それぞ れが適当な理由をつけながら読めばいい。



『からくりサーカス』後半、作者が勝を真の主人公にすべく物語の本筋を彼に集めたために発生した諸々のことに対して、ガッカリさせられたことはたくさんあります。本編に関係ない話でも自分が描きたいものを優先し、回収できたものを回収しなかった部分については作者の責任だと思いますしね。『からくりサーカス』はそれがとても目につく。
けれど、先生は「からくりサーカスは描き切った」と明言したし、ツイッターでの先生の返事を読めば、読者が何を言ったところで自分がこうと決めた展開が絶対なのであり、ハッキリ言えば「言うだけムダ」な人だということは分かります。
藤田先生のツイッターのフォロワー数と反省会での質問数の比率をみると、ほとんどの人が静観していたのが分かります。
こんな風に人知れず愚痴ってるくらいでいいのです。脳内で自分の納得のいく補完をすればよかったのです。



それが分かっていながらどうしてこんな総括をしたのか。
それはツイッタ反省会の先生の締めくくりの言葉にありました。



『みなさん、からくりサーカス反省会にたくさんのご質問ありがとさん! そんなこと作者が答えんなよ。とか解釈は読者に任せろよ.とか正しい意見の方がおられましたが、すみませんねえ。 おれに火が入っちゃったら、エゴ丸出しで自分がこう思って描いたコトを言いたくなっちゃったんだよねえ。』

『もともと、ちゃんとした作者じゃないと、長いお付き合いの読者の方はご存知かもしれません。 自分が描いた物語は、できるだけ楽しんでもらいたいヤツで、嫌な解釈をしてるヒトを放っておけない部分が出ちゃいました。 そんなにやらないから、今回は勘弁して。 あーあ。面白かったー。』



嫌な解釈をしてるヒト



って何ですか?
確かに読者は作者の意図した部分を全部読み取ることはできないと思います。それは読者側の読解不足もあるでしょうが、書き手の力量不足だってあるはずです。
自分が描きたかった趣旨とは違う解釈をしている読者に対して、「嫌な解釈をしてるヒト」ってレッテルを貼るのは傲慢じゃないですか?
反省会のやりとりで先生が反論した質問、その解釈が嫌な解釈、ってことですよね?具体的には勝と鳴海の再会とかでしょうか。
私なんかは嫌な解釈をしている人間の最たるものでしょう。
もっと言ってしまえば、ファンが高じた人ほど深く掘り下げ色々と考えてしまうものでしょう。二次をしている人間なんか、作者の思わざる解釈をしているヒトばっかですよ(苦笑)。
作者が誌面で描き切れなかったことは、読者にとってはなかったことです(外伝でその後を描くのならいざ知らず)。作品終了後の余韻は読者ひとりひとりのものです。それを自分が気に入らないから取り上げるとは!
確かにツイッタでの作者本人の発言は公式設定になってしまいますが、本来、漫画家なら漫画で、作品の上で訴えるべきです。
勝と鳴海の再会も、逆転治療も、鳴しろの人間化も、こうやった形で付け加え後付けをするならば、「描き切った」という発言が矛盾してますよね。描き切ってないじゃん。



『ベルサイユのばら』の池田先生は、アニメ版最終回で描かれたアランその後が不満だったとか。
確かに『ベルばら』原作上でアランのその後は描かれてませんので、アニメ制作者がフランス革命後のアランをどう描こうと自由です。だから池田先生はアランを次回作(ナポレオンの話)に登場させて、先生の思う『正しい』アランのその後を描いたのだそうです。
これこそが漫画家の訴え方の在り方だと思うのです。
後からツイッター等で「いやそれはそうじゃない」と反論し、読者を否定する姿勢は漫画家としてどうでしょうね?
ラストの発言から読者のために質問に答えていたのではなく、自分の「こう思って描いた」主張をしたかっただけなのがよく分かりました。
漫画家が自分の作品について原稿用紙の外で言い訳する姿は美しくないですね。読者にとってもけしてありがたいものではないです。黙っていて欲しい。



先だっての舞台『サーカス編』。
ラストで勝と鳴海はしろがねと一緒に仲町サーカスにいました。主催者があの反省会での発言を知っているかは分かりませんが、普通に作品を読み通し、ひとつのエンターテイメントとして大団円を迎えさせるのならば、勝は鳴海と笑ってエンドが相応しいと考えるのは読者の求めるところでしょう。
この後鳴海と勝が再会しない設定、作中でそれを示唆する描写がなかった以上、そんなのは読者の知ったことではありません。





長々と駄文にお付き合いいただきまして、ありがとう、と言うよりはずっと、申し訳ありませんでした。です。
私は偏った鳴しろ信者であり、私の中で彼ら以上のCPは現れないであろうと変な確信を持っています。鳴しろに似たCPに出会って瞬間的に盛り上がっても、また鳴しろに戻って来る、そんな妄想脳の持ち主です。
鳴しろが大好きでずっといたいな、と思っているのに、その気持ちが萎えてその度に二次創作をやめようかなと挫けることが何度もありました。それはいつも彼らの生みの親の言動によって引き起こされました。
ユリイカにて、作者自らの鳴海軽視の発言に触れ、非常に哀しい思いをし、この反省会です。
先生にとっては間違いでも、それが大好きな読者もいるのです。
そこのところを分かって欲しいのですが、無理ですね。
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