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鳴しろ信者である管理人の萌え吐き出し場&問わず語り。
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前回のブログでは某高級ブランド直営ビルのエレベーターが鏡張りで(天井も)ラブホテルみたいだったという記事がありました。おふらんすのハイセンスとラブホテルにありがちなくてベタなものは紙一重のようです。
そういう風に感じる人間は行く資格がないのは分かってます(笑)。







「死を必すれば則ち生く」
(第2巻 勝 第9幕 【才賀屋敷へ】 加藤鳴海)





 
軽井沢に辿り着き、誘拐組と戦闘を開始する鳴海が口にした言葉。
これは中国の兵法・呉子からの引用。




もうひとつ、「兵士、甚だ陥れば則ち懼れず」としろがねに言い聞かせています。
これは兵法・孫子の引用です。





具体的にどういった内容のものなのか、ググれば出てきますがその手間を省くためにちょろっと調べたものを書き出してみます。三国志がお好きな方にはかなりアラが見える、もしくは解釈が違う、とかあるかもですが大目にみてください(汗)。



孫子
死せば、いずくんぞ、力を尽くすを得ざらん。
兵士、甚だ陥れば則ち懼れず、往くところ無ければ則ち固く、入ること深ければ則ち拘がれ、已むを得ざれば則ち戦う。



死を覚悟すれば、どうして人は力を尽くさないことがあろうか。
兵士は窮地に陥るとかえって懼れなくなり、脱出するところがなければかえって固く守り、敵国に深く侵入あうれば団結し、他に方法がなければ必死に戦う。



呉子
呉子曰く、凡そ兵戦の地は、屍を止むるの地なり。
死を必すれば則生き、生を幸えば則ち死す。



そもそも戦場というところは、間違えば命を落とし自分の屍を晒すところである。
このようなところでは迷うことなく死を覚悟して捨て身で戦えば、生きる手立ても生じてくる。
生に未練を残し生き残りたいという逡巡をしながら戦えは命を落とす事態に陥るであろう。





腕っ節だけが取り柄のはずの鳴海が中国古典の兵法をスラスラ引用しているところから読み取れるのは、師父は戦い方を実践だけではなく理論としても教え子に叩き込んだのかもしれない、ということです。師父は中国人ですから中国古典としてもポピュラーで兵法としても現代でも世界的に有名な孫子であり呉子だったのかもしれません。真の強き者はただ身体を鍛え技を究めるだけでなく、己が自分のものにしたその戦う術を最大限に活用するためにはどうすべきかを知るべきで、戦う者として敵を知り味方を知ることも、それらを生かして戦いを避けられるところは避け極力最低限の被害で抑えられる最善の方法は何かを判断する力が必要であると、あの究極超人の師父なら文武両道を師事しそうです。鳴海は根が真面目ですから師父の教えは自分のものにしようと徹底的に勉強したと思うんですよ。



と考えると鳴海の頭の中には兵法の基本は詰まっていると思われますが、孫子には「天の時、地の利を知れ」とか「敵陣を攻めるときの最善の方法」とか「敵情の窺える敵兵の様子」とか色々あるようなのに、そういったものを一気にすっ飛ばし、真正面から突っ込んで最初から「兵士、甚だ陥れば則ち懼れず」、「死を必すれば則ち生く」の境地に至り迷うことなく戦いをおっぱじめる辺りが鳴海を鳴海らしいと言わしめる所以なのでしょう。姦計とか奇襲とかそういったものには無縁で正面突破が身上の、味方が驚き呆れるくらいの、そして敵が「まさか!」と唖然とするくらいの気性の真っ直ぐさが鳴海の選択した方針には出ています。





では鳴海は飛び交う銃弾を掻い潜る訓練をしたというのか・・・。
恐るべし、師父。 




鳴海の行動にしろがねの見る目も変わります。
初のフルネーム認知。 





結局、鳴海はどんなに理論を頭に叩き込んだところで実践するために考えるのがめんどくさいし、後先考えてないだけなのに正々堂々ともいえる正面からの攻撃が性に合っているだけのことなのでしょうね。
まさにイノシシ。
このストレートな攻撃方法は鳴海だからこそ「らしいな」と思えるし、鳴海だからそれでいいと思う。



ちょっとなぁ、と思うのはこれと似たような方法で敵陣に踏み込んだサハラでの『しろがね』軍ですよ・・・。これについてはレビューが続いていたら考察が入るでしょうけれど、今簡単に何がちょっとなのかに触れておくと、『しろがね』軍団が選択した戦術は「真正面から乗り込む」です。彼らの目的が【真夜中のサーカスをとある時刻まで足止めしておくこと】だとはいえ、「まんまと相手の姦計に乗った」こと、乗ったフリをして策略を巡らしている(例えば自動人形とバトルをしているのはあくまで陽動であって、隠密にテント内の構造を探ったりフラン人形を探したり、ミサイル攻撃が不発に終わった場合を考慮して内側から破壊する算段もつけておく等)ならばともかく、策略も何もなく全滅、無駄死にって・・・それはないでしょう?



結局、顔無しが何らかを謀っていただろうことは予想できるので『しろがね』サイドの情報は自動人形にリークされていた可能性は大で、どうしたって『しろがね』は全滅の運命にあったのでしょうが、それでも【やるべきことを何もやらずに全滅】と【やるべきことを全てやった上での全滅】とではまるで意味が違います。振り返って冷静に読むと『しろがね』軍の戦法の不味さは一目瞭然であり、ここまでは神展開と言われるサハラ戦もそれは勢いと熱さで多少のことを読者が目を瞑っていたところもあると思うのですよ。最後までここまで物語を牽引してきた立役者を舞台袖に引っ込めることをしなければ読者は茹った脳ミソのままで読み続けたと思うのです。



少年漫画だからそこまで突き詰める必要は無い、あくまでエンターテイメントなんだから。そう仰る方もいらっしゃるでしょう。けれどそれは違います。娯楽だから辻褄の合わないものを提供していいことにはなりません。荒唐無稽なストーリーを展開していく以上、そのベースになる部分、設定や世界観・因果律というものはしっかりと構築されなければならないのです。毎週毎週締め切りに追われながらここまでの作品を作り上げた藤田先生はすごいですよ!だからこそ!もうちょっと固めてから、練り上げてからカタチにしてもらいたかったな、と思うのです。



『からくりサーカス』は名作ですし大好きなんですけれど、「これってどうしてこうしなかったの?」とか「こうした方がよかったんじゃないの?」とか「普通だったこうするんじゃ?」とか言われる部分が多い作品なのは認めざるを得ないのは確かです。43巻分も連載しておきながら今ひとつ世間一般の知名度も評価も上がらないのはそこにあるのではないでしょうかね。藤田先生の描く熱さや、壮大で深遠なテーマに共感し指示するする根強いファンは少なくないですが、ただでさえ藤田先生の絵柄はとっつきにくい人が多くて・・・そして内容は複雑。『からくり』は『うしとら』よりもずっと複雑怪奇ですよ。しかも長い。ファンというわけではなく、キャラに感情移入できなかった読者にとってはその複雑さの中にポコポコ浮かび上がってくる矛盾点の多さに途中で放り投げてしまう人も多いでしょう。
すきこそもののあはれなり、この一言に尽きますよ。





話が横道にそれてしまいましたが、鳴海はすでにこの段階で戦うこと、戦い方に迷いがないということなんです。前回の話にもなりますが、連載開始直後で悟りきっている鳴海はやはり、少年漫画の主人公としての成長の余地がないのは確かです。
作者の思う以上に鳴海は勝手に動いてしまうキャラだったのでしょう。違う言い方をすればそれだけ鳴海は活きのいいキャラだったんですね。
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